07SEP17
今日のはクリスチャンしか理解できない日記になった。
またfacebookを見ていてふと思ったことだが、
ぼくは、新しく教会に来た人や信じるようになった人を迎え入れはするが、果たして心からキリストを求めることをその人たちに示しているだろうか。
集まりではよく「こういうことがあっていつも祈ってる」とか「最近全然祈れてなくて苦しいんだよねー」とかシェアする。
が、それは過去のある点のことか、日常のある時点のことを話してるだけで、シェアしている今現在のことではない。実際に祈る姿や神様を求める姿を人目に見せることをしてない。
これは「隠れたところで祈りなさい」という御言葉と相反しそうだけど、そうじゃない。
その言葉の背景とこのシチュエーションは違う。
祈りは他の人に伝染して他の祈りを起こさせるし、大いに励まされる。
(字に起こすとどうしてもピンとこないかもしれないし、または律法的に見えるかもしれないけど)
たぶん、神様と出会いたくて教会に来てる人や、どこででも神様を讃えたい人にとっては、同じ場所にいる人が一言も祈りや聖書の言葉を発しないのを見ると不自然に感じるんじゃないかと思う。
新しく来た人を教会に繋ぎとめておくだけなら、そこらへんのサークルと変わらんがな。とちょっと言葉が汚くなってしまう。自分に。
ま、結論からすると「そー思うなら行動すれば」で終了できる。がせっかくなので思いの過程の部分を書き留めておく。また自ら問い続けていきたい。
燭台は机の上に出さないと。
神様の言葉と聖霊は自由。