07SEP17
今日のはクリスチャンしか理解できない日記になった。
またfacebookを見ていてふと思ったことだが、
ぼくは、新しく教会に来た人や信じるようになった人を迎え入れはするが、果たして心からキリストを求めることをその人たちに示しているだろうか。
集まりではよく「こういうことがあっていつも祈ってる」とか「最近全然祈れてなくて苦しいんだよねー」とかシェアする。
が、それは過去のある点のことか、日常のある時点のことを話してるだけで、シェアしている今現在のことではない。実際に祈る姿や神様を求める姿を人目に見せることをしてない。
これは「隠れたところで祈りなさい」という御言葉と相反しそうだけど、そうじゃない。
その言葉の背景とこのシチュエーションは違う。
祈りは他の人に伝染して他の祈りを起こさせるし、大いに励まされる。
(字に起こすとどうしてもピンとこないかもしれないし、または律法的に見えるかもしれないけど)
たぶん、神様と出会いたくて教会に来てる人や、どこででも神様を讃えたい人にとっては、同じ場所にいる人が一言も祈りや聖書の言葉を発しないのを見ると不自然に感じるんじゃないかと思う。
新しく来た人を教会に繋ぎとめておくだけなら、そこらへんのサークルと変わらんがな。とちょっと言葉が汚くなってしまう。自分に。
ま、結論からすると「そー思うなら行動すれば」で終了できる。がせっかくなので思いの過程の部分を書き留めておく。また自ら問い続けていきたい。
燭台は机の上に出さないと。
神様の言葉と聖霊は自由。
06SEP17 pt.2
J. I. Packer と John Piper の名前がかぶってしかたがない。 (両者まだ読んだことないが.. )
06SEP17
自分にも小説を書く才能があったらなぁ、と本気で思った。
昔の文豪に会ってみたい。
01SEP17
Facebookで過去の今日みたいなのが出てくる。
今日それがあった。下の写真。4年前だ。
その頃はまだ成田に住んでいて、クリスチャンの小さな集会をもっていた。
成田から我孫子までの成田線沿線の教会の青年が月一で集まって賛美やバイブルスタディやお祈りをしていた。
最近変化が多いせいか、忙しいせいか、はたまた忘れやすいのか、この頃のことが遠い過去に思える。
先日、仕事で成田空港に行ってきたが、古巣に戻ってきた感じがしたが、もう殆ど誰もいない。
3-4年前までは成田にいたけど、自分はだいぶ変わってしまったなーと思う。良くも悪くも悪くも。
(なんか未練がましい文章だな、と思うと本当にそんな気持ちになるからやめよう。)
さて、その中でも、たまに連絡をとる人がいて、りっちーばという帰国者をサポートする集会のスタッフで、ぼくも最近誘われた。
別れは必ずあるものの、ひょんなことでまた繋がって一緒に活動できることは嬉しいことだ。
いつもながら行き当たりバッタリな、ただの記録のような日記だ。
Cat and Dog Theology という本をもらって読んだ。
どちらも共に神様を礼拝する者ではあるが、一行で要約すると、
ぬこは自分への祝福を求め、犬は神様の栄光を求める。
猫と犬はもちろん例えの話。
ぼくはどれほど神様へ従わず祝福だけを求めてきただろうか。どれほど神様の栄光ではなく自分の栄光を求め、欲を満たしてきただろうか。という感想。
ああ、本を読むのは好きだが、芋ずるで読む本が増えていくので困る。キリがない。
あらかじめ生涯に読む冊数が決まっていればいいのになと思ったり、思わなかったり。
おしまい
27AUG17 Off to Yokohama
記録。(←ただの記録で、人が読めるかどうかあまり気にせずに書いてるのでそこはおゆるしください)
横浜教会へ。(磯子区)
親交のある神学生の講壇での説教に励まされた。
礼拝のあとの時間もいろいろと話せてよかった。
遠い友人にも会えた。
そのあとは、ボイトレの先生のコンサートに招待され、横浜に移動。こちらもよかった。
移動中はWTPを聞いてた。
さて、聖書は神さまを中心に書かれていて、そしてイエスさまを通して神さまの栄光が表されたことが書いてある。
一方、人間のことも書いてあり、あらゆる人間の弱さがめちゃくちゃ如実に書いてある。喜びから怒りや妬みまですべて人間の感情が網羅されていると思う。
教会から移動してコンサート会場についてからの待ち時間中、瞬間的に本当に嫌な負の気持ちになった。
聖書の場面で例えるなら、ダビデに槍を投げつけたときのサウルの気持ちと同じだ。
部下のダビデにめちゃくちゃイライラして、彼を呼んで竪琴を奏でさせたけど、いきなり槍を投げつけた。数回投げつけた。
(ダビデは全部かわしたんだけど。)
自分もサウルと同じように、心の中で投げてしまった。
その瞬間、一気にうなだれた。
気づいたら、その槍は自分に飛んでくるようだった。
コンサートが始まり、ある曲がNobody knows your trouble that I seenみたいな曲名で、イエスさま君の気持ちは知ってるよというような曲だった。
うえー、来たな神さま。その場で泣きたかった。
駅に向かう道すがら、途中まで聞いてたWTPをかけ、心の中を整理しながら、どんだけ汚いやつなんだと確認した。押しつぶされそうになる。
が、押しつぶされて肢体がふさがってるときにも見上げれば、そこには十字架があって、こんな自分でも赦されたのかと気づく。
心の脆さを改めて気づかされた1日だった。
教会でもめちゃくちゃいい時間を過ごしたけど、こっちを書いておきたかった。
神さま、いろいろと苦しいけど、このことからもあなたの栄光がどうにかこうにかやがて表されるなら、そうしてください。アーメン