03DEC18
あと数時間で(12/4 3amを以て)生まれて30年の月日が満了する。
(↑なんか人生を終えるって意味にも取れそうだけど、まだ生きますw)
神さまは人に永遠を想う思いを与えられたと同時に、それぞれの季節と時間を作られた。
だから、ぼくたちは「あのときこうだった」とか「懐かしい」とか思い出すことができるのだと思う。
そして、ぼくがその30年を振り返るに、ただキリストの恵みのみでここまで生かされたなと思う。
キリストを知らなかった月日の方が多いけど、キリストを知ってからの恵みは計り知れない。(いやぼくがまだキリストを知らないときでさえも恵みはあった。が、今恵みの上にさらに恵みが与えられた。)
いろいろ思い出すにつけ、自分が何かをしたことよりもイエスがなされたことが遥かに尊いという思いに達する。
「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」と書かれているのは本当で、しかしまた「その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」とある通り、ぼくはその全てを思い出すことも書き尽くすこともできない。それほどに溢れている。
いろいろと思いを巡らし、それは救いの時にまで遡り、そして遡れば遡るほどいつも神さまの救いの計画の凄さを感じる。どこまで伏線張ってたんだ?と思うくらい。笑
ぼくは「イエスさまを信じます」って言った時に救われたと思っている。
けど、その時まで神さまはどれだけのプロセスを積んでこの者を救いに至らせたのかと思う!(このことを知るなら、ぼくは神さまに失望することは決してない)
キリストに至らせる伏線を張りに張り、待っていてくれた。ぼくは知らずに好き勝手に生きていたが。
ここに神の愛があると思う。独り子を十字架に遣るだけでどれほどの苦しみがあったか。自由に行き来する人、いつそれに気付くかもわからない人に自ら愛を示すために神さまはいつも一緒にいた愛する独り子を世に遣わされた。それは、それほどに神さまが世を愛されて独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためであった。
この恵みを、神さまがなした業を覚えつつ、変わらない神さまに期待しつつこれから日々変えられつつ歩んでいきたい。
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。詩編 139:9-10