14-16JUL17
Week28 (7/10-14)は仕事に押しつぶされた一週間だった。
7/14(金)
息も絶え絶えにようやく終わった一週間、締めくくりは夜の学び会。
安息することについて学んだ。配られたレジュメ(指定テキストあり)がよくできた内容でとても良かった。細かく言うと、フォントや間隔もよかった。(ので、前回の自分が作ったのと比べるとただただ打ちのめされる。笑)
「人間の罪からくる疲れは、礼拝でしか得られない魂の安息によってのみ、取ることができる。」今回のレジュメより
翌日の賛美集会は元々休んで家で休養しようかと思っていたが、帰りがけにはたと思い直し、参加しようと思った。そう、神様への礼拝や賛美、祈り、悔い改めには何ものにも変えられない力があることを知っているはずじゃないか。
(そう気付かない時分においても、その(祈りの)中で心が変えられていくことはままある。詩編の中の祈りがよく、苦しみの叫びから始まり感謝や賛美の祈りに終わるのがいい例)
あとは、あるパワフルなご婦人が参加されると思い、また話したいと思ったことも参加したいと思うきっかけになった。前にも書いた通り、神様の話はいくらでもしたいし、それが何よりの喜びだから。
家でゆっくりするよりは賛美したかった。
7/15(土)
炎天下の中、自転車で教会へ賛美集会に参加。運動したくて、自転車に乗ったのだが、暑すぎて道半ばで「なんで自分からわざわざ苦行みたいなことしてるんだろう」と後悔、34℃だったか。教会に着くなり宣教師婦人に叱られたな。(苦笑)
賛美後、分かち合いでは、祈りについて話し合った。
疲れきっていて負のオーラしか出してなかったせいか、みんなから祈るよと言われた。
またいろんなご婦人からよく「熱いねー」と言われるが、ぼくからしたら総じてご夫人方の方がよっぽど熱い。
7/16(日)
前日、前々日といろいろ励ましを受けつつもやはりまだ弱り切って神様を見失っているような状況で、讃美歌333番が心に刺さり、涙が出てきた。
また新しく買い戻された感。
4番
わがすべては 主のものなり 主はわが喜び また幸なり
頭の中で分かっていることでも、それが示されたときにはっと気づく。
また、過日にある教会員の方が逝去されたと報告があった。生前にあまりお話しできたことがなかったが、数年前だったか、ある日の礼拝後、その方が間違えてぼくの靴を履いて帰ってしまったということがあった。そのことがすぐに思い出された。報告中、不謹慎かもしれないが、涙とともに、その何でもないできごとでも関われたことが嬉しかった。
礼拝後は、教会学校のイベントに参加し、夜まで恵まれた一日だった。
なぜかふと思ったが、この教会に遣わされたことは幸いだった。
まだきっと書きたいことはたくさんあるが、一瞬過(よぎ)ってすぐ消える。よくあることだ。
だからこうして、断片的ではあるが、一つひとつ記録しておきたい。
起こったことを具(つぶさ)に思い出し、神様が働かれたということを思い出すなら、ただ過ぎ去ったこととするより、その出来事は何倍も意味があることだったとわかる。
あ、今日(7/16)の礼拝後の食事のときに、教会のちゃんYがこのブログを他の人に言い広めていた。
言づて「おれがいないとこで読んで(、そして密かに広めて)ね。」以上。笑
そう言えば、水曜日(7/12)は通ってる教会の祈り会は休会となり、職場から最寄りの同じ教派の教会に行った。そこでの祈り会は初めてで、初めて話す方が何人かいたが、その方々はぼくのことを認識していてくれてとても嬉しかった。
また、そこの牧師先生も帰りがけにぼくの将来のことを祈ってくれてとても励まされた。
あと、N.T.ライトを読み終わった。感想を書く気力がない。良書だった。
https://www.youtube.com/watch?v=qBI4WDfRh6E&list=PL2ZmDorU5cTT3jNgJEbphJmrQaJkF1pdz&index=62
10JUL17
今日も生かされた感、生き残れた感ひしひしである。
帰る時に見た月と漂う雲とそのスピードが完璧なバランスで美しかった。
自然を見て感動し、神様を想い感謝し喜べるのは、ぼくが既に神様を知っているからというよりは、それを神様が造られ、またそれらが神様の栄光を示しているからに他ならない。
7/7(金)
仕事でミスってしまい、残業帰りで、日々の疲れもあり、「もう人生手詰まりだ..」と弱音を吐きながら帰っていた。
休日も折衝のメールを入れなければならず、週明けにはお客さんに怒られるのが決定していた。
が、寝る前にメールを確認すると、夜中にも関わらず、関連部署から「まだ大丈夫ですよ!」というメッセージが送られてきた。
その瞬間は「あぁ.. よかった..」とすぅーと眠りについた。
7/8(土)
改めてメールを見返し、安心感がやまない。自分でも確認したが、確かにダメだったはずだったものが、システムの表示エラーだったのか、まだ大丈夫だった。結果、事はまた杞憂に終わった。
ぼくが手詰まりだろうがなんだろうが、神様はそうじゃない。ぼくがダメになろうが、神様は真実な方だ。
と思った。
弟子たちが手詰まりだと思った三日後に神様は勝利を宣言された。
最近、福音とは何かという問いに触れたが、これは【私の神が王になられた】ということだと思う。ちょうどイザヤ52:7にそう書いてある。
この節の前半に「山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足はいかに美しいことか」とあり、これがとにかく好きだった。
一昔前の宣教者たちが、山々を駆け巡り、福音を人々に伝え知らせているのを連想しあこがれを持っていた。
さらに後半には、神が王になられたとある。そう、そうだからこそ、これを伝える者の足は美しい。
すぐ2,3行となりにある大切な知らせを見落としていた。
05JUL17
- お祈り課題
今日の祈り会から新しい祈り課題を追加した。それだけだが、半歩ばかし進んだ気がする。
みなさんの目のキラキラがうれしかった。
- 知られること
ブログ読んでるよーと言われるとやはりうれしい。
言葉のキャッチボールまではいかないが、こちらが書いて、相手が読んで反応したらうれしいものだ。
あーこんな人も読んでくれているんだとよく思う。
時間と労力に余裕があったら、本でも書けるんじゃないかと思うことがたまーにある。
書いたら誰かに読んでほしい。
そんなことを考えてたら、神様も人に創造者なる唯一まことの神様を知ってほしくて、また人がご自身の元に戻ってくるのを願って、聖書を人を通して書かれたんじゃないかなーと思った。旧約聖書によく「これは誰々が主こそ神であることを知るようになるためである」という文言が多くあるから。
思いつき。
- N.T.ライト
通勤時間に読んでるけど、難しい。
パウロ神学を再考、再定義しようとしてる人の本だが、なまじ聖書知識(聖書からというよりは人から聞いた話としての知識とか)がついていると、却って理解するのが難しいかもしれない。
聖書を文字通り読むときと、それを自分で解釈するときと、生活に適用して聖書の言葉の意味を当てはめようとするとき、あと人から聖書を聞いたとき、といろんな角度から情報が入ってくるから、神様の御言葉を真に理解するには、「理解できますように」と祈るのは本当だなと思う。
となると人に話すときも御言葉に立ってないと喋れないなーと思った。
02JUL17
最近よく癒されるうさぎ
スコットランドの友人が教会に来た。
みんなとのご飯で、イギリスってドラクエみたいって話になった。
草原とか古い建物(特に城)とか。
ロンドンに約1年間留学していた。あと旅行も合わせると5-6回渡航してる。
他のEUの国に行くとしてもロンドン経由は欠かせない。
あるとき、ドイツだかの帰りに、ロンドンで行ってた教会の礼拝に出たくてイギリスに一時入国したときのこと。
うっかり滞在先の住所(留学時住んでたドミトリーの)を控え忘れて、入国カードに「滞在先住所: Friend's house」って書いたことがあった。今では考えらない・・
当然入国管理で止められる。入管は人によって、スムーズに行くか行かないかが決まるところはあると思うけど、そのときは、
入管「friend's house? おま、なめてんのか」
ぼく「ソーリー、控え忘れてしまったのでーす。不法滞在ちがーいまーす。」
いろいろやりとりして、このfriend's houseってどこなんだって話になり、昔留学中に住んでたところと説明した。
しかし依然らちがあかなかったが(ま、そんな説明で通れるわけないけど)、朝9時くらいだったか、「礼拝が10:30に始まっちゃうから行かせて!場所はロンドン、ブルームズなんちゃかんちゃらだから!これ以上時間かかると遅れるー!イギリスで信仰が与えられてずっとそこに通ってたからどうしても行きたいんだー」とお願いしたら、「今度から気をつけな(´∀`)b」と行かせてくれた。
ということがあった。
今日その昼ごはんのときにも友達が言ってたけど、いろいろ人と話してると結局は神様の話になるんだよね。今の自分のルーツというか、なんで今の自分がいるのかみたいな話に。
そのことを抜かしたら話進まない、みたいな。
(留学っていうある意味特別な体験で神様を知ったからことさらそう感じるのかもしれない。)
今日そう思った。
何はともあれ、神様の話ならいくらでもしたい。
ときがよくてもわるくても。
近々またイギリス行きたいな。
28JUN-01JUL17
4日分。タイムリーに書いてたらもっと詳細に残せたが、どうも何をするにもまとめてやってしまう。
こまめにこつこつタイプになりたいな。
6/28(水)
初めて、合併先の会社の営業所での勤務だった。
空いている席での仕事ということだったが、その日座った席の両側はなんと教会仲間 兼 同僚(となった)Yちゃんの部署の後輩だった。異動してきて今はぼくと同じ部署だ。
もともとその二人のことはYちゃんの後輩だと知っていたので、こちらから話しかけた。
「ども、前原です。」
後輩A・B「こんにちは。」
「Yちゃんの後輩だよね。おれYちゃんと友達なんだよね〜」
A・B「あら!」
みたいな感じで話に花が咲き、小話も挟みつつ楽しくその日を過ごしましたとさ。ちゃんと仕事もしましたよ。
そして、昼休みに人とご飯にいったとき、あるMGRの話題が挙がって何気なく聞いていたら、「あの人(MGR)面白くて、謙虚で、ほんと素敵よね・・」と続き、最後に「あとクリスチャンだし。」と言っていた。
また社内でクリスチャンの方を発見。まだ仕事で関わったことないけど、今度会ったら話しかけてみよ。
(「クリスチャン=いい人」のイメージは間違っているが、悪く言われるよりはましなのか.. )
で早速クリスチャンの同僚にそのことを伝えて一緒に喜んだ。
夜は教会の祈り会へ。
祈り後はもっぱらLineとFacebook談義だった。ITに強い牧師先生とその場の最年少のぼくがLineとFB未使用の方に使い方やら仕組みなんかをレクチャーした。あと最後、ぼくの将来の結婚についてもちょっと盛り上がったな。周りの方はみなぼくを応援してくれているようで嬉しい限りだ。もし40歳になっても未婚だったら誰か紹介してもらうように先生にお願いしておいた。
毎回みなさんの話題が違って楽しい。礼拝であまり話さない人がいたり、あまり聞かない話題も挙がったりして楽しい。
ところで、今まで祈り会に参加(他教会含む)した中で、青年と出くわしたことが殆どない(聞いたこともあまりない)。そこまでいろんな教会に行ったことがあるわけじゃないけど。
特別に青年が来てほしいという期待や、いないからと言って残念な感じはしないけど、週の中日に集まって祈りに覚えること、仕事で忙しい人ならなおさら、とても恵みなことので、誰か来たらいいなぁと思う。いろんな状況があるけどね。
ぼくもいよいよ忙しい感じになってきてるので、祈り会にコミットして参加出来てることは本当に感謝だ。
6/29(木)
佐野にある営業所へ出張。久しぶりに栃木に行った。そこの営業マンにMGRと一緒に同行してお客さんをいろいろ廻った。
営業に行くまでと帰りの道すがら、MGRから話をいろいろと聞いたが、とてもいい人だなと思った。(あと、大阪出身の人だったから、ちょっと親近感持てた。)今のMGRは皆総じていい人たちばかりだ。
Yちゃんがいつも楽しそうに仕事してるのが納得できた。ホントに良い会社にマージされたな・・。会社を辞めたとしても普通にこの会社の良さは人に伝えたい。サービス云々の前に、人や社風がすごくいい。
いろいろと活動の幅や可能性が広がって、この先楽しみだ。
6/30(金)
EU圏のサイバー攻撃の影響で一部サービスが止まってしまい、一日ずっと問い合わせにかかりきりだった。合併後の忙しさにシステムダウンが重なるとは。。泣ける。ま、こういうこともあるのか。
夜は同僚クリスチャンと飲みへ。田舎の飲み屋だったが、なかなか粋なところで満喫した。いつも思うが、職場にクリスチャンがいるとなんと心強いことか。
そして、近しい関係ならなおさら。
7/1(土)
ぬお、7月だ。
久しぶりな自由な日な気がする。午前中に前住んでいた隣町Mに髪を切りにいった。飯を食べ電車に乗り帰っているところ、乗換駅でふとポケットを調べたところ家の鍵がないことに気付く。
そして、いろいろと考えを巡らす。最初に、落とした可能性はなく、出るとき挿しっぱなしにした可能性が高いと踏み、とりあえず帰宅。その間、もし誰かに持っていかれてたらやばいな〜家の前の工事現場のおじさんとかに取られてるかもなーと隣人を疑う。そして、鍵はなかった。
次に家の管理会社に電話して、鍵紛失の相談をするも合鍵費用が高すぎてちょっと自暴自棄になりかけ、終話時明らかにイラッとしながら「考えます」と電話を切った。
次に、寄ったお店に電話して落とし物の確認をするも「ない」という返答ばかり。背に腹は代えられず、通ったルートをもう一度往く。あまりにも面倒くさくて気が滅入ってしまっていたが、「鍵がどこかで保管されて見つかりますように」と祈った。ああ優雅な我が休日が、、と嘆きつつ。
立ち止まったところや電話してなかったところに出向くもやはりなかった。
もう鍵交換するしかないかと思い管理会社に電話し合鍵作りの手配をした。業者からすぐに電話がかかってくる砥の粉とだった。
最後に、ほぼ諦めていたが、M駅の駅員に尋ねたところ、その駅員(白井健三似)がほころんだ表情を見せた。
ぼく(えっ?)
「特徴どんなですか?」
ぼく「緑の、、あ、いやいや、紫のカバーの・・」
とテンパりながら伝えると、健三はすたすた奥の方に行った。
「これですね」と持って来てくれて鍵はなんと見つかった。
駅で落とすことはないと考えていたがそこにあった。
まず人を疑い、都合の悪い相手にはイラッとし、不特定多数の人たちの人の良さを信じないぼくは何者なのだろう。
捜している最中の祈りは、半ば諦めの祈りだった。が、神様は祈りを聞かれ、最後の最後のところで鍵を渡してくれた。
せっかくの休日が・・と嘆いていたが、逆に神様の恵みを手に取って感じられた日となった。
イエス様、絶対「信仰の薄いものよのー」って言ってるわー。笑
最後に、駅で陽気に電車を待っていたところ、見たことがない番号から電話がかかってきた。
X「〜〜株式会社です」
ぼく「えーと、はい・・?」
X「あ、鍵屋です。何時に伺いましょう?」
言うまでもなく、鍵は無事駅で見つかったことを伝え、お互い苦笑いしながら、話を終えましたとさ。