09-11JUN17

いろいろ驚くことがあったので、今のうちに書いとかねば。(三日分。長編)



6/9(金)

6/1(木)のこと。会社の統合で、新しいチーム編成となり、メンバー顔合わせのミーティングで上司が「新しいチームになったので親睦深めにみんなで旅行行きましょう!!」と言って盛り上がった。が、行き先が何と島根出雲。出雲大社。参拝。縁結びってことで、二つの会社がうまく結ばれるようにと..
みんな旅行ってことで大盛り上がりだけど、ぼくだけ不安な表情..


お参りできないよ。

旅行の日までに上司とone on oneの面談があると言われたので、そのときに「クリスチャンだから参拝できません」と言おうと決意。でもなぁー、言ったらどうなるんだろー、そういうの通じなそーと少し不安になる。

そして、当日いろんな質問を受けながら、最後の質問のときに「あのー、旅行のことなんですけど、その参拝のことでして、、」と切り出す。
MGR「ほい?」
ぼく「実はぼくクリスチャンで参拝できないんですよー」
M「へー全然いいよ。鳥居くぐんなくてもいいし、鳥居の前でカフェっててもいいよ。」
ぼ「いえ、拝まなければいいので、中には入ります。(安堵)」←ぼくはok
M「XXさん(MGRの上司)も理解してて、もしクリスチャンの人がいたら気分害するから、そこらへんは自由だよ。はは。」
ぼ「!!! 本当ですか。」(うるうる)
と、会話は続き、MGRなんと高校のときミッション系の高校に行っていたことを話し、毎日祈りと聖書の時間があったとかで、その場で「お祈り知ってるよー」といきなり主の祈りを発した。「天にましますわれらの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ.. (略)でしょ?」唖然とした。

その夜、青年会の学び会で、そのことを話して「いやー、話したらぶん殴られるんじゃないかと思ってた」と言ったら爆笑された。笑 おれどんだけ心配性やねん..

仮に参拝を強要された場合の言い訳として、旧約聖書に出てくる、神様の癒しを受けたナアマンのくだり(偶像拝んじゃうけど赦してくださいってところ)を心の中で準備してた自分が恥ずかしい..

神様ありがとう。感謝します。あなたは本当にぼくたちの考え得ることを超えて、ぼくたちの想像を超えて、すばらしいものを与えてくれる。
(MGRはぼくが参拝できないことを理解しただけじゃなく、その場で主の祈りを発した。)
ぼくが祈れない時もあなたはぼくの全てを知ってくれていて、祈っていてくれた。あなたのような神が他にあろうか。どうかこの不信仰の者を赦してください。いつも繰り返してばかりだけど、愛であるあなたはイエス様の十字架の赦しのゆえにぼくを見捨てず、今までもこれからも共に歩み導いてくださいます。どうかぼくがこれからもあなたに従って歩んでいけるよう整えてください。アーメン


6/10(土)


JCNF(Japan Christian Network Fellowship 海外でクリスチャンになって帰国した人たちを支援する団体)の千葉の集まり「りっちーば」に参加。
初野外での集会で賛美、アクティビティ、分かち合いができてよいときだった。
そこで救いの証しをする機会があった。我ながら救いの証しをするのは好きだ。
自分の説明下手は置いといて、神様の業、導きがすごすぎる。思い出すだけでも嬉しくなるし、これからの導きもすごく楽しみになる。

(神様の業を想うとき、それをいくら振り返ってもしつくせないと思う。そして、これからの導きもとても想像がつかない。)

証しを書く書くゆうとりますが、とりあえず次回ですね。笑

そのあと、改革派(自分の教会の所属教派)の青年会の親睦会へ。(ダブルブッキングして本当にごめんなさい。。)
遠方から来た人や今年から社会人になった人、学生の人たちまで集まって本当に感謝のときでした。

何より、こんな不出来なリーダー(わたくし)を中心にともに建て上げてくれる役員のみんなには頭が上がらん。m(_ _)m 神様感謝します。
祝福の一日でした。


6/11(日)

礼拝。そしてユース(青年会)。その後、しばしみんなでまったり。以上。
(↑これだけで感謝!!)

まったり中の会話で。(登場人物はみんなそこにいた人)
6月に会社の統合があって、ぼくはYと同じ会社になり、そしてなんとK(Yの兄。)がぼくとYの会社の競合会社に入社。そして、Kたの会社にお互い営業しかけるみたいな図ができた。なんそれ、こんなことあるんかーと単純にビックリ。



いつでも神様をたたえていたい。


https://youtu.be/XZDyMJhd4Bo

29MAY17

ぶつくさつぶやきながら聖書を開き、詩編105編を読もうとしたら、1節に「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。」とあった。


もちろん黙るよね。笑

黙らざるを得ない。


そこに書かれてる背景と自分の状況は違うから一節だけ抜きとって、「おーこれこそ与えられた御言葉!」と思うのは危険だけど、これは時にあった御言葉だと思った。


祈りの中で、「神様、私は正しいことを言っていますか?」と尋ねた。


エス様は「誰が正しいのか?」と返す。

それは天の父なる神様だけ。


不完全なぼくはつい自分の正しさを主張して、頑なだから譲れなくて、孤立して疲弊してしまうけど、唯一神様のみが正しい方で、その方がぼくを愛してくれてるんだと気づくとき、少し心はほころんで相手のことを尊重できるようにと祈ることができる。


神様はすべてのタイミングを知っているとおり、その人の状況にあった言葉を与えてくれるなーとつくづく思う。

毎日聖書を読むようにしてて、一週間サボってしまって、一週ずれてしまったとしても、その日にちょうど一週間前に読むはずだった聖書の言葉がめちゃくちゃしっくりくることがある。


そのような夜のひとときの驚きでした。


証しは次回から書く!



https://youtu.be/zY5o9mP22V0




27MAY17

あるラジオに投稿したら、それが読まれた。

けっこう嬉しい。

今日は午後、気になっていた蔵前のカキモリというステーショナリーのお店へ。自分で好きなノートを作れるとか。表紙柄、紙質、ペンをつけれるようにするかとか。
こじんまりとした店に大勢の人がいたので、あまり長居はせず、ペンを2本(置いてあるやつ全部独特な感じ。)買って出ました。今度は自転車で来ようー。そしてゆっくり鉛筆とか万年筆を眺めたいー。

明日は日曜だけど、とある早朝礼拝に行こうと思う。(と思い続け半年)
それから母教会の礼拝。


あ、最近よく救いの証しをする機会があるので、何回かに分けて、証しをここに残しておこう。
というわけで、次回は過去を振り返り証しを書こう。

※証し = イエス・キリストの神様が自分の人生の中でどう関わってくれたか、また今も関わってくれているかを話すこと

ぼくはノンクリスチャンの家庭で育ってクリスチャンになったけど、もともとクリスチャンホームの人に証しをすると、すごいねーとかよく言われる。
すごいというのは、神様が。
ぼくも、我ながら、救いの証しをするのは好きでその度に神様がどれほどぼくを愛してくれているのかを再確認できるし、これからもそうなんだと思い起こさせてくれる。

この勢いでこのまま証しを書きそうだけど、次回書こ。