02SEP18

気取った文章はつまらん。

と昨日の日記を読んで思った。


さて、SGでコリント人への手紙Iを学んでいて、明日は15章だ。

前々回のにやった13章は愛の章と言われている。

あるとき昼休憩のときに同僚にキリストの歴史みたいなのについて聞かれたときに、というかなんでいつも水曜日早く帰ってんのと聞かれて、SGのことを話してちょうど13章をやったところをスマホで見せたら、あー知ってると言っていた。それで一連の、創世記からキリストの生涯、十字架、復活などを話した。日本にいたらこんなこと知らないよねー。。と言っていた。


さてさて、SGの友だちと13章の愛について話していろいろ発見があった。


完全に受け売りだけど(愛は3種類あり、その内フィレオとアガペーの2つに言及し)、

神をフィレオする = 神を賛美する

神をアガパオする = 神に従う

人をフィレオする = 人と会話したり仲良くしたりする

人をアガパオする = その人を赦し受け入れる

とまとめていた。


フィレオは無意識にできることだけど、アガペーの方は、意識しないとというか、神さまからの愛をもらわないとできないことだよなーと思った。

進んで苦痛の方に向かうって人間の本能とは逆の道だからなー。

神さまに従う=毎回苦渋の選択というわけではないけど、苦痛を伴うことは普通にある。

エスさまは十字架にかかる前夜に血の汗を流しながら祈って神さまに従った。翌日十字架にかけられた。


最近、御心って何かと考えさせられることが多い。

御心がなりますようにとはよく祈るしよく聞くけど、自分の願望=御心ってなってないかチェックしないと。

むしろその思いの通りにならなくても、そのときでも神さまの御心を覚えて従えるように祈りたいなと。