31JAN18

前略読者さま 連日の手抜き日記を読ませてしまい言葉もありません(_ _) (タイトルが日付だから内容も予測できずとりあえず開かないわけにはいかんという状況お察しします。。


(さて) 


やや、もう1月も終わり。また雪が降るとか降らないとか。

連日の残業も同僚となんとか頑張り、しかし今日はなぜかそんなに疲れてない。


生活リズムを整えるべく、今更ながら、いや今だからこその、ルーティンを作った。

とりあえず続けてみよう。



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ところで、最近棚の整理をしていて、ふとあるノートが手に止まった。もちろんずっとそこにあったのは覚えてたけど。


御言葉を英語で書いたものだった。

大学最後の1年間や就職して数年間、聖書を読んでは心に残った言葉をノートに書いていた。


詩編に関しては、書く箇所が多すぎて、結局全部書いて詩編専用ノートとしたのだった。(NIV 詩編 完コピ)



記すからには、見返すときのためにというのが普通だと思うし、今になって改めて見るとやはり励ましを受ける。神さまはこういうときのためにノートをしたためさせたかと。


だけど、それにもまして、何倍にもまして、御言葉を書いているときの恵みは計り知れない。


ぼくは、単純に五感で聖書に取り組むことで(朗読、それを聴く、見る、書く、、、嗅ぐはないか)恵みがいやますのかと思うけど、何よりも神さまの臨在が強烈なのだ。


この感覚を思い出した。

無意識ながらにも、日々こうして糧を得ていたのかと。


同じことをしても、今と数年前では受ける恵みは違うだろう。いや同じだけど、感じ方が少し違うかもしれない。神さまの恵みはどんな状況においてもその人の心をすっかり包むから。今と過去の欠けや思いは違うとして、同じように完璧に恵みに包まれるとしたら、何か新しい恵みが与えられているような感覚になるというか。これ以上はドツボにハマる。


コピーでそれほどのものであれば、実際に聖書を書いた著者たちはどんなだったろうかとふと思った。

余談、というか脱線だけど、ヨナ書はヨナが書いた、あるいは書かせたとすれば、最後微妙な終わり方をしている。最後に「そしてヨナも悔い改めた」とか「ますます神への恵みを語り継いだ」とかで締めくくれば、ヨナとしてもすっきりする終わり方だ。けど、そうではない。

後味悪い終わり方で、その後ヨナがそのままの状態で生きたならヨナ書は描かれなかったと思う。

書かれたのは、その後ヨナが変えらたからこそ、神さまへの愚痴はなくなり感謝に変えられたからこそ書かれたのではないかと思う。

神さまに立ち返ったときのヨナは、神さまがなしたことがわかって、その恵みを記さずにはいられなかっただろうと。

(ヨナは一例だけど)そう考えると、それぞれの著者は聖霊の恵みも相まって、相当な満たしを経験したんだろうなぁ。



そういうことを思った電車内の特別な一時だった。

これを再確認できたのもまた恵みだ。


日記を書いてるうちに、降りる駅を1駅すっ飛ばしてしまった。なんという。。

(書き終わったときは帰宅済み)


Praise be,